障害者差別解消法ってなんだろう?

空にかかる虹

 この2016年4月1日から障害者差別解消法(以下、「解消法」とします)が始まります。ここでは、この法律がどのようにしてできたのか、この法律の考え方とは何で、なぜ必要とされるのか、そしてその大きな特色は何か、さらに私たちの住む社会はどのように変わるのかについてお話ししていきたいと思います。

広い荒野でジャグリングする人

障害者差別解消法ってどんなふうにできたの?

 世界の人口のうち、約10%、6億人(約15%、10億人とも言われます)ほどの人が、なんらかの障害をもっていると言われています。そのうち、約8割が、いわゆる開発途上国とよばれる国や地域に住んでいます。障害ゆえに望むような教育が受けられなかったり、障害があることで雇用されなかったり、また、暴力をうけやすかったりします。

 国連には、マイノリティ(少数)グループの人権を守るため、マイノリティごとに国連加盟国に対して守るような約束を定めた条約があります。女性差別撤廃条約や、子どもの権利条約などがそれにあたります。その障害者版として、国連において障害者権利条約(以下、「権利条約」と略します)が生まれたのです。この権利条約は、2001年の国連総会でメキシコにより提案され、2006年同会で成立しました。障害は個人のなかにあるのではなく、障害者を弱者にするような社会の側に問題があるとし、また、「私たち抜きで、私たちのことを決めるな」という考えのもとに、権利条約は成り立っています。国連において権利条約が成立するまでのあいだ、世界の障害者団体が国連に出向きロビーイングをしたのです。このように、障害者に障害を軽くしたりなくすようにさせたうえで、「社会復帰」させようとする考え方や、障害者を保護の対象とするような見方ではなく、「障害者が、障害のあることで否定されることなく、障害のあるそのままで生きていてよい」とする視点から、この権利条約は生まれたと言えます。

 日本においても、国連で権利条約が成立した9ヶ月後の2007年9月に、署名されました。しかし、権利条約を批准しようとすると、そのレベルに追いつくまで国内にある障害者についての法律をととのえなければなりません(注1:「署名」と「批准」の違い)。それまでに日本国内には、障害者基本法という法律がありましたが、それだけでは批准できるレベルには達していなかったのです。そこで、2011年にはこの障害者基本法が改正され、2013年6月には解消法が定められたのです。その結果、2014年1月に、国連は日本において法律がととのえられたとして、権利条約の批准を認めました。このように、解消法は、権利条約を日本国内においてなじませるための法律であると言えます。

障害者差別解消法ってどんな考え方なの?

 解消法の第一条には、この法律の目的が書かれています。

「この法律は、障害者基本法(昭和四十五年法律第八十四号)の基本的な理念にのっとり、全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有することを踏まえ、障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本的な事項、行政機関等及び事業者における障害を理由とする差別を解消するための措置等を定めることにより、障害を理由とする差別の解消を推進し、もって全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする」。

 法律の条文なので、読みにくいですよね。かみくだいて説明しましょう。

 まずは、すべての障害者が、障害のない人たちと同じように、人間として生きることを否定されずに、障害のあるそのままで生きていてよいですよということを述べています。そして、そのように生きていくための手立てを、社会のほうが用意しなければならないということです。

 つぎに、社会のいろいろな場所で、障害があることによって生じる差別をなくしていこうということを言っています。そして、障害があることによって社会から分けられてしまうようなことがないように、障害のある人もない人も、お互いがその人らしく生きていこうとすることを認めていこうと言っています。そして、解消法は、障害のある人もない人もともに生きる社会をめざしていく、と述べているのです。

 なんだ、少なくとも考え方としては当たり前だ、と思われるかもしれません。しかし、わざわざ法律にしなければいけないのは、そのようになってはいない現実がいまなおあるからなのです。胎児に障害があるとわかれば、中絶するカップルがほとんどで、妊婦さんのおなかのなかにいる赤ちゃんに先天的な障害を発見するような技術もすすんでいます。そのようにはやい段階で障害があるとわかれば、障害のない子どもたちと分けられた学校で教育をうけるのです。働くこともできない障害者は、多くがその家族によって介護されることになります。その負担が限界になったとき、山おくの施設に収容されるか、障害のある子どもを高齢になった親が殺してしまったりするのです。そうした苦難をやりすごし、なんとか街に出て生きている障害者も、働いていても賃金が低かったり、すぐに解雇されてしまったりします。レストランや電車も、使いづらかったりします。障害があることをバカにされたり、笑われたり、傷つくような言葉を投げつけられたりすることもしばしばです。そのような現実があるなかで、解消法が必要とされているのだとも言えるでしょう。

障害者差別解消法ってどうして必要なの?

 さきほど述べたように、解消法はひとことで言えば、障害のある人もない人も、障害のあるなしによってくらしているところを分けられずに、ともに生きる社会を目指していくために必要なものであると言えます。ここでは、違った見方で考えてみます。

 何かを法律によって決めるということは、その法律を守らなければ、刑務所に入れられたり罰金を支払ったりしなければならないということ、つまり罪になるということです。言いかえれば、法律にすることの意味のひとつとは、その法律にしたがうように強制される、ということでもあります。もちろん、そもそもまちがっていると思われる法律にたいして、その法律に反対の意思を示すために、わざと法律をやぶるということは当然考えられますが、解消法の場合は、そのような法律にはあたらないと考えられます。

 解消法第三条では、国と地方公共団体にたいして、障害者差別を解消するための法的な義務が課されています。また、第四条では私人(しじん)にたいして、第五条や第八条では民間の事業者に、それぞれ障害者差別を解消するための努力義務が課されています。ここでいう努力義務とは、しないことによって罰せられることはないが、そのように努めなければならない、という意味です。これらによって、障害者差別の解消に向けて、国も民間も私人(しじん)も協力していきましょう、ということなのです。

 よくある批判として、「法律で私たちの行動をしばって、強制的に差別をなくすように仕向けても、障害者を差別する意識は変わらないのではないか、それぐらいには障害者差別は根深いものなのではないか」という意見も聞かれます。たしかに、法律は意識の問題に直接ふみこむわけではありませんし、そのような問題意識を持つ人からすれば、解消法ができることなど何の意味もない、むしろ、自分の積極的な気持ちから差別をなくしていこうとしなければ、逆効果なのではないか、と思うかもしれません。

 しかし、もとから障害者差別を問題にしている人たちは、そのまま変わらずに問題にしておけばよいのです。解消法は、そうではない人たちにも、障害者を差別する社会を変えていこうと言っているわけです。つまり、すべての人たちが、何らかの形で障害者を差別する社会について考え、それをなくしていかなければならない、としているのです。

 また、1985年に成立した男女雇用機会均等法により、不十分ではありますが、少なくとも女性に対する差別というものが意識化されてもきました。1989年にはセクシュアル・ハラスメントという語が新語・流行語大賞の新語部門で金賞を受賞したりもし、「女性差別はいけない」「セクハラは暴力である」という考え方もある程度は私たちの社会において意識化されてきたとも言えると思います。このように考えると、「意識を変えるのはよいけれど、意識も変わらないのに法律によって行動だけしばっても差別はなくならない」とも言いきれないのではないでしょうか。法律によって行動がしばられているうちに、意識も変わってくる可能性もあるのです。意識が変わらなければならないぐらいに障害者差別が根深いものであるとするならば、そして私もそれにはおおいに賛成しますが、法律も意識もどちらも問題にすればよいのであって、法律による差別の解消をきらう理由はないと私は考えています。

障害者差別解消法の特色ってなんだろう?

 解消法の最大の特色とは、第五条で述べられている「社会的障壁(バリア)の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮」です。この「社会的障壁の除去」と「合理的配慮」という考え方について、説明していきたいと思います。

 まず、「社会的障壁」については、第二条で次のように定義されています。

「障害がある者にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう」。

 こうした考え方のもとには、障害者は本人の障害によって、というよりは、障害者を取り巻く社会によって障壁が作られている、という見方があります。ですから、その障壁をとりのぞくのもまた、社会の責任であるということです。

 これまで障害者は、本人に障害があることによって障壁が作られ、その障壁を崩すのは本人や家族の責任であると考えられてきましたが、解消法が示す考え方というのは、そのような考え方とは正反対であるわけです。障害者と社会とのあいだに障壁があるのは、障害者に障害があるからではなく、障害者を差別する社会が障害者とのあいだに障壁を作るからなのです。したがって、そのような障壁をこわす責任があるのは、障害者本人や家族ではなく、社会のほうなのです。

 次に、「合理的配慮」についてです。これについては、解消法には定義がありません。したがって、解消法のもとになっている権利条約の第二条の定義を見てみましょう。

「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」。

 なかなかにややこしいですが、私はつぎのように考えています。

 障害のある人とない人とが何かをしようとします。その何かを実現しようとするときに、障害のある人のほうがより多くの支援が必要であるとしましょう。このとき、障害のある人もない人も両方が、何かを実現できるようにすることが合理的配慮なのです。たとえば、障害のない人が支援ゼロで何かを実現でき、障害のある人が支援3で同じことを実現できるならば、障害のない人へは支援ゼロ、障害のある人には支援3を提供するのが合理的配慮の考え方です。

 合理的配慮の考え方は、平等ということばの意味を問うものであると言えます。すなわち、支援の量に注目したときに、障害者のほうが多く提供されています。これだけを見ると、不公平だと思われる方がいるかもしれません。しかし、実際には、同じことが実現されたのです。つまり、障害のある人とない人とでは、いまの社会のなかでは、スタートラインが違うのです。そのことを考慮に入れて「必要かつ適当な変更及び調整」を考え、平等を実現していくのが、合理的配慮なのです。言いかえれば、提供された支援を使って、何を実際に実現するのかということまでふくめて平等の意味を問うものが、合理的配慮であると言えるのです。

障害者差別解消法で社会はどう変わるの?

 このように、解消法はこれまでの法律と比べても画期的(かっきてき)な法律であり、とくにもととなった国連の権利条約においては、障害に基づく差別も定義されています。さらに権利条約では、障害のある女性や、障害のある子どもについてはそれぞれ一つずつの条文を使って、とくに女性であること、子どもであることによる差別が同時に起きやすい、つまり複合的な差別を受けやすいことに注意を向けています。

 しかしながら、どんなによい法律であったとしても、法律ができたからすぐに障害者の差別がなくなるといったものでもありません。法律がはじまるのはよろこばしいことには違いありませんが、これもまた障害者にたいする差別をなくそうと闘ってこられた先輩たちの歴史のひとつの通過点にすぎません。

 また、解消法にはその考え方の道筋が書いてあるだけで、具体的な場面における政策や数値目標が書いてあるわけではありません。さらに、上に書いた合理的配慮においては、過度の負担」をいいわけにして、望んでいる支援が提供されない場合もあるのではないかという危険性も言われています。加えて、日本における障害児教育が、ずっと障害のある子とない子とを分けて教育する歴史を歩んできたので、その大きな枠はくずさずに、教育の場における「変更と調整」によって合理的配慮をすすめようとする危険性もあります。権利条約の考え方から言えば、可能なかぎりにおいて障害のある子もない子も同じ場所でともに学ぶことを基本としなければなりません。今後、それらもふくめ、地方自治体が、独自の障害者差別解消条例を作り、解消法の上乗せ横出し(注2:上乗せ横出し)をしていく必要があるように思われます。すでにいくつかの自治体では、そのような条例がはじまっています。

 最後に、解消法がはじまるにあたって、どうしても考えておかなければならないことがあります。それは、障害者の差別をなくしていこうとすることが、「障害者特権」であるとして非難されることの危険性についてです。たとえば、民族差別をなくしていこうとし、在日コリアンの人たちにたいして支援することが、「在日特権」であると言われてしまう時代ですから、障害者にたいする支援についても、同じように「障害者特権」だと言われてしまう可能性があります。

 しかし、それはそもそもまちがっているのです。差別されているということは、すでにそのような人たちが、まさに在日コリアンである、障害者であるというだけで、社会から生きることを否定されているのです。障害者差別を解消するということは、障害のある人だけ優遇して生きやすくするということではないのです。障害者であるというだけで、生きることを否定されるということをなくす、障害者であるというだけで、生きることを否定する社会を変えるということなのです。合理的配慮のところでも述べましたが、同じことを実現するために支援が多かったり少なかったりするというのは、そもそもこの社会にはいろいろな人びとが住んでいるからなのです。障害のある人もない人もともに生きるというとき、否定されてはならないことは「世のなかにはいろいろな人が住んでいて、それでよい」ということなのです。

注1:「署名」と「批准」の違い
 日本の場合、署名は内閣によって行われます。批准は国会の事後承認によって行われます。

注2:上乗せ横出し
 国が定める法律には、地方公共団体によってその法律のもとで、法律の範囲を超える条例を作ることができます。上乗せ条例とは、法律に定められた基準を上回り、よりきびしくした条例のことで、横出し条例とは、法律では規制の対象にはなっていないものを規制の対象にすることです。
 たとえば、差別解消法において、民間の事業者が合理的配慮を提供することは努力義務にとどまりますが、これを行政機関と同じく法的義務にするような条例を作ることができます。これは上乗せ条例です。また、複数の分野にまたがる事業者や、自治会などの所管分野がわかりにくいものにたいする勧告については、主管大臣が誰にあたるのかすぐには判断できず、差別解消法ではすばやく対応できません。そのため、そうした場合に知事や市町村長に勧告の権限を与える条例を作ることができます。これは横出し条例です。

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