ぼくの反ジェリー感情 (「大原正太のだいたい昭和放浪記」その1)

ネコとネズミが向き合ってる

テレビアニメの「トムとジェリー」を知っているのは、もう中年以上の人ということになるだろう。

図体はデカイがちょっとおバカな飼い猫のトムが、毎週かしこくてすばしっこいネズミのジェリーを追いかけては、あえなく返り討ちにあって散々なことになるというストーリー。

いま思うと、トムはやはり食い気のせいでジェリーを追いかけてたのだろうから、ネズミから見ればとんでもない奴ではあろうが、ぼくは子ども心に何故かトムびいきで、毎回平然とトムを陥れて悲惨な目に会わせるジェリーの姿が、憎らしくてたまらなかった。

これは米国の商業アニメ特有のえげつなさか、いやヨーロッパのものにもこんな感じのことがある気はするが、とにかく猫のトムのやられ方が酷すぎる。調理器具でハムみたいにスライスされたり、アイロンで延ばされてぺらぺらにされたあげく物干し竿に干されたり、「人民の敵」はここまでされても当然だというのであろうか?

とにかく、「敵」なり敗者なりに対する情けというものが、作り手にもジェリーにもみじんも感じられず、「仲良くケンカしな」という日本語版主題歌の歌詞が、なんとも空々しく聞こえたものである。

だが、考えてみると、こういう非情さやえげつなさを、欧米なりキリスト教世界特有のもののように考えて、自分とは縁がないものとする発想自体が、もうこの種の「非情さ、えげつなさ」の一部であるような気もする。それは、理解しがたい「敵」と「自分」とを、都合よく区別する発想法だ。

戦争の歴史においては、私たちはどの時代にも非情でえげつない存在として振る舞ってきたのであり、そうなることからまぬがれることの出来る文化なり宗教なりを特に残すほどには、戦争というものは甘くないであろう。

いや、それはいいのだが、ぼくはとにかくジェリーが憎たらしくて仕方なかった。

あんなに冷酷で悪知恵の働く奴が、しかもあんなに小さな奴が、いつも最後には勝利していばっているということ。それがどうにも許せず、毎回、今週こそは闘いがトムの勝利に終わることを期待して見るのだが、当然ながらそんな結末になることはなかった。

この「反ジェリー感情」は、どこに由来するのであろうか。

ジェリーが体現していると思われる、自立心と積極性あふれる、USA資本主義的ヒーロー像に対する違和感があったことも事実だと思われる。自分自身、この競争社会の中では明らかに「トム寄り」(つまりは「負け組」)の人間だという苦い自覚が、すでに子ども心に芽ばえていたということも、残念ながらありそうである。 

そうした思いから、トムに同一化し、毎回そのトムをイジメてせせら笑っているジェリーが憎くて仕方がなかった、というところだろうか。

だが、どうも気になるのは、そうしたことでは説明しきれない憎しみの強度が、ぼくのジェリーに対する感情には含まれていたように思えることである。

当時の日本のアニメで、ジェリーに似た印象のキャラクターを挙げるとすると、思い浮かぶのは、手塚治虫の「リボンの騎士」のサファイアだ。彼女に限らず、手塚の子ども向けアニメの主人公には、レオにせよアトムにせよ、独特のユニセックスな感じがあったと思うのだが、それは何かぼくを不安にさせるものだった。どうもそれは、男である自分が安住している秩序が、おびやかされるみたいな気分だったのだと思う。

その不安の対象を否定し、引き下ろしてさげすみたいという、一種の攻撃性が、トムの敵であるネズミのジェリーへと向けられていたのではないだろうか。

だが、あらためて言うが、実際に命の危険にさらされていたのは、トムではなくジェリーだったのである。たしかにアニメにおいては、そんな現実世界のありさまが子どもたちに突きつけられることはなく、ただ勝者(成功者)であるジェリーの誇らかな姿だけが映し出されて、ぼくのような愚鈍な子どもの反感を買うばかりであったのだが。

現実の人生では、ジェリーにはなれずとも、無自覚で獰猛(どうもう)なトムになら誰でもなりうる。男ならばなおさらそうだ。そして、そんなトムが大手をふるって残虐な攻撃性を「敵」にぶつけられる場所、それが戦場なのだ。

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