なぜ公共料金を支払うとき人は無口になるのか (「ニコとラン」その1)

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人が公共料金を支払うとき

深夜3時を過ぎるとさすがに客足も少なくなってくる。ランが商品の整理をしているそのとなりで、「もし真理というものがあるとしたら」と、僕はわざともったいぶった調子で言ってみた。
「そのひとつは、人は水道代や電気代を支払うとき、必ず口を閉じ、無言のまま決済をするということだ。」

ぼく・古履ニコと、友人の住市ランは、どこにでもあるようなコンビニエンスストアの、どこにでもいるような深夜のアルバイトだ。たまにお客のいないヒマな時間があくと、どうでもいい会話を交わす。ランと話すのはおもしろい。こちらの思いもよらないとっぴな答えが返ってくることがあるからだ。ランはうつむいたままの姿勢でこう言った。

「なぜ人は出かけるときサイフを忘れてしまうことがあるのか、ニコは知ってる?」
やっぱり、予想外の答えだった。僕は興味をひかれた。
「なぜだろうね。」
「人間は『無意識』のうちに『お金を払いたくない』と感じているからなんだそうだ。物忘れやうっかりした行動は、私たちの意志や心の動きの奥底にある『無意識』で説明することができるんだと、ジークムント・フロイトは言った。」
「フロイト。19世紀の心理学者だね。」僕は学校で習った記憶をたどった。何をした人かはよく覚えていなかった。「つまり、サイフを忘れるのは、ケチンボだからなのかい?」

夜に浮かぶぼやけた光

「ケチンボというのは違う。フロイトのいう『無意識』は、個人の意志や性格ではコントロールできない、いわばバックグラウンドで働いているもので、それが人間の行動に影響を及ぼすという考え方だ。例えば、水道代や電気代を払うときだね。」
「普通の買い物と公共料金の支払いには違いがある?」
ランは目の前にあった商品のおにぎりを手にとって僕の前に差し出した。
「普通、お客さんはコンビニでは具体的な商品とひきかえにお金を払うよね。ところが電気代やガス代にはそれがない。」
「なるほど。それで公共料金の支払いをするときにはみんな『無意識』に無言になるわけだ。」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。」
結論を出すのを避けるような言い方に僕は違和感を覚えた。こういうときのランの言葉には必ず意味がある。
「どういうことだい?」
「フロイトの功績は、人間の意識のつくりは理論立てて説明できるんだと主張したところにある。理屈そのものはさしあたってどうでもいいのさ。役に立つなら使えばいい。そうでなければ」ランは手に持っていたおにぎりを裏返し、ラベルの表記と時計を見比べ、そのままカゴの中に放り込んだ。「そんな理屈は捨ててしまえばいい。それが真理というものだ。」

真理は必要とされるたびに誕生する

「世界中のどこででも、いつの時代でも意味を持つような真理の存在を、君は信じるかい?」
僕はランの言葉の意味を考えながら、さきほどランがカゴの中に放り込んだおにぎりを拾い上げてみた。決まりではあるけれど、実際にはまだ食べられるものを廃棄するというのはあまりいい気分ではない。
「うん。信じたいね。人は真理に近づくために発明や発見をしようとするんだろう。きっと僕たちのこの平凡な仕事や生活の中にも、そんな真理のかけらのようなものがあっていいはずだと思うんだ。それが僕が真理にこだわる理由だよ。」
僕の答えを聞いて、今度はランが感心したように言った。
「ニコはそんなことを考えながら働いているのかい、面白い。だが、『公共料金を支払うとき人は無口になる』という君の観察だが、それは例えばどんなときに役に立つと思う?」
「どんなだろうね。さしあたっては、そう、公共料金を支払う人を相手ににらめっこをしても勝てない、ということぐらいしか思いつかないが。」
「悪くない。真理というのはそれが何かの役に立つときはじめて真理になるのであって、そうでないなら、意味がない。いいかい。いま120+450=570という計算式があったとしよう。この計算式が意味のある概念であるためには、例えば120円のお茶と450円の弁当を買って、その合計金額を求める必要にせまられることで、はじめて意味を持つものになる。そしてそれは、毎回買い物をするたび、はじめて真理として新しく誕生するものなんだ。」
「公共料金を支払う相手とにらめっこをするコンビニ店員はそんなに多くないと思うがね。」
「そうだとしたら、そいつは、その程度の奥深さの真理でしかないんだよ。」
しゃぼん玉2つ

ランの言葉に僕はひどくがっかりした。そんな僕にランはこう言って続けた。
「そう落胆することもない。それは真理には違いないんだからね。そして、いいかい、学校で教わる勉強のほとんどもまた、それと同じ程度の真理でしかないんだよ。全ての真理は牙(きば)を持っている。だがたいていは学校で教えられるとき、牙を抜かれてしまうのさ。」
ランは何かとても大事なことを言ったような気がした。だがそのとき、お客が店の中に入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
僕たちは仕事に戻った。コンビニ店員が世界の真理について語ろうとしていたなんてことは、人の知るよしもない。

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