ほんとうは、もっともっと、いろんなことが「アリ」なんだ――社会的な想像力について

黒に発光体2つ

これはアリ?ナシ?

唐突ですが、質問です。みなさんにとって、「アリ/ナシ」の境目ってなんですか?「これなら全然OK」と思うときと「いやー、これはNGでしょ…」と感じるとき、どんな違いがありますか?

食べ物については、意見が分かれやすいかもしれないですね。以前、いつになく本格的な感じの寿司屋に行ってみたときのこと。世にいう「回らない」寿司屋です。そのお店では、握ってもらった寿司はお皿に乗せずに、直接カウンターのうえにおいて、箸を使わずに手で食べる形式でした。普段、あまりこういうお店に来たことがなかったので、食べ物を直接カウンターに置くことに、はじめはちょっとぎょっとしました。僕はすぐになれたので、「これはナシ!」とまでは思わなかったけれど、もしかすると、何か食べるときには、お皿と箸がないとどうしても抵抗があるというひともいるかもしれません。あるいは、その反対に、「箸使うとか絶対ナシ!邪道!」というひともきっといると思います。

寿司 アジ

または、着るものについての感覚とかも。僕は大学の寮に住んでいるんですが、寮の冬の風物詩のひとつは、「どてら」です。寒くなってくると、暖かくて着心地も楽な「どてら」を羽織ってそのあたりをうろうろしている寮生が現れだします。僕もどてら愛用者で、どてらはコタツと並んで冬の必須アイテムです。そんなどてらについて、ある友人の寮生がふとこんな疑問をつぶやきました。「どてらを着て外出するのは、どこまでOKなのか?」

ふつうなら部屋着の姿を他人にはあまり見せないものかもしれませんが、寮で共同生活をしているとそのあたりの境界線があいまいになってきます。その延長上で、寮の近くにあるコンビニまでどてらを着たままいくこともしばしば。まあ、ここまでならまったく抵抗なく行く寮生も多いかと。この友人の感覚だと、もう少し範囲を拡げて、寮の近くにある行きつけの食堂(徒歩約5分)くらいまでならOKでは、ということでした。「まあだいたい、そのあたりが相場かな」と僕はそのときはひとまず納得したのですが、後日、別の寮生から、どてらを着たまま体育の授業に出た(ちなみに種目はサッカー)と聞いて、驚愕した覚えがあります。こんなふうに、「うち」と「そと」での格好の区別については、周りの寮生はわりと(かなり?)いい加減なひとが多いように思いますが、こんなふうにどてら姿で人前に出ることをだらしなく思うひとも多いと思います。

寿司をどんなふうに食べるかにせよ、どてらを着たままどこにいくかにせよ、「なにがアリ/ナシか」という判断については、ひとによってさまざまな基準を持っていると思います。そのひとの性格や価値観、生活してきた環境やそこでの習慣、そういったさまざまな要素が複雑に絡まりあって、「これはアリ」もしくは「これはナシ」という判断の境界線が引かれていくのではないでしょうか。

フランスで出会ったもののこと

ちょっとここで話がかわります。僕は少し前まで何年間かフランスに住んでいました。もちろん、「アリ/ナシ」の境界は日本とは大きくちがいます。ふだんの習慣の違いもたくさんありますが、特に社会のなかで許容されるものの範囲が大きくちがうことについて、とても面白いなと思いました。

夜のモンマルトルの街角

たとえば、政府のやることに異議を唱えたり、じぶんたちの要求を主張するときに行われるデモ行進。日本のデモが、警察に取り囲まれて道路の端っこに追いやられているのに対して、僕が見たものは、信号も自動車もお構いなしで、つねに道いっぱいにのびのびと拡がって行うデモでした。こうしたデモにはテーマによっては、大人たちだけではなく、高校生が大挙して参加することもあります。そんなときには、いくつもの学校が抗議のために封鎖され、生徒たちは授業を放棄してデモに参加します。しかも、デモに参加する生徒たちを応援する親や先生たちも少なくありません。学校をサボってクラスの多数がデモに行くこと、さらにそれを許容する大人たちがいることは、フランスでは珍しくありませんが、そうした事実があることは僕にとっては驚きでした。

また、社会保障のあり方についても。僕の住んでいたパリでは2000年代になってから地価の上昇が激しく、家賃はとても高くなっていました。日本では地方都市に住んでいたので、それに比べると住居に必要なお金は段違いになります。そんなときに、非常に助かったのが住宅手当の存在でした。これは収入や家族の状況の応じて、家賃の一部分が行政(僕の場合はパリ市)から支給される制度です。僕はフランス国籍を持たない外国人留学生として生活していたのですが、それでも住宅手当の支給対象だったので、家賃に充てるために日本円にして2万円前後のお金を毎月もらっていました。僕もこの制度をはじめて知ったときには驚きましたが、「住む」ということそれ自体を権利として捉える発想があるからこそ、医療費などと同様、「住む」ことそのものを援助するための予算が公的にきちんと確保されているのです。

「アリ」を拡大する想像力のために

デモのことも、住宅手当のことも、日本の感覚では絶対無理そうなことがふつうにできてしまえることが僕には新鮮に思えました。いまの日本社会の価値観だと、「今日は学校に行かずにデモに行くから」と先生に言ったり、家賃が高いからお金を支給するように行政に主張したりすれば、きっと受け入れられないでしょう。いや、反対される以前に、「こいつ、いったい何を言ってるんだ??」と思われて、まちがいなくドン引きされるでしょう。

ただ、そんななかでも確かに言えることがあります。ある社会――たとえば、いまの日本社会――では「絶対無理」と思われていることも、ほんとうは 「絶対無理」ではないということです。いまの日本では無茶に思われることは、逆立ちしてもありえない絶対に不可能な選択肢だからそう思われているのではなく、現に別の社会でも「当たり前」になっているように、何らかの条件さえ整えばありえることがらなのです。たとえいま、別の社会のあり方が不可能だとしても、いま僕たちが社会に対して持っているイメージは決して唯一絶対のものではない。個人の価値観や状況などのさまざまな要素に応じて「何がアリで、何がナシか」の境界線がゆらゆらと揺らぎうるように、社会的なことがらについても「アリ/ナシ」の基準は変動するし、また変動させることができるのです。

実は、この文章でフランスのことを紹介しながらも、「フランスはすごいな」という印象だけを与えてしまうことを僕はすこし心配しています。もし、うえに書いたことをフランスの特殊事例として考えるなら、日本とはまったく関係のない「別世界の出来事」になってしまうでしょう(それに、フランスは根深い問題がたくさんある社会で、決して理想化することはできません。これについてはまたいずれ書くかもしれません)。でも、そこで立ち止まってしまうよりも、もう少しだけ発想を変えてみることもできるはずです。「こういうのもアリなんだ」という驚きを、自分自身の社会の――いますぐにはとても無理でも――ありえるかもしれない別の姿と重ね合わせてみること。そうすることによってこそ、他の社会に触れたときに感じる驚きは、「いまの社会はこうでしかありえない」という暗黙のあきらめを突き抜けて、別のあり方を描き出していくための、社会的な想像力へと転換できるのだと思います。

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