卒業、入学、就活、入社……「夢をもて」とか「夢は何?」と言われるけどさ

濃紺の空の下に湖

夢=職業?

春はあけぼの、ごきげんよう。ウェトリヌッテです。

なんとなくテレビをみていたらレポーターがこれから大学生になるらしいひとたちに「夢はありますか?」「夢は何ですか?」ときいていました。
「〜になりたいです!」とハキハキこたえるひともいれば、「わからないのでこれから考えます」というひともいたりと、まぁ、よくある光景だなぁという感じではありました。

年度をあらたにして、世のエラそうなオトナたちがワカモノに向けて、「夢をもて!」なんてありがたくもないお説教をたれながす場面も多い季節かもしれませんね。

えっ?既にうんざりしてる?

だよねぇ。。。

ごめんなさいね。でも、もうちょっと夢の話を続けさせてくださいな。

私自身はひとから「夢は何?」ときかれるような年ごろも過ぎ去りつつあるのですが、しかし、そういう質問をされてもいつも困ってしまっていたことはおぼえています。
というのも、「夢は何?」ときかれるとき、それはいつも自分が何になりたいか、具体的にはつきたい職業をきかれているだけだと思ったからです。
いざ就職したら、もうきかれなくなるか、きかれるとしてもどんなふうに出世したいかとか、より<夢のない>質問に変わっていくだけ、みたいな。

街を行き交う人びとの残像

願い事とか、目標とか夢っぽいもの

そして私はマジで働きたくないのです。
一生、働かずに楽して暮らしていきたいです。生活も苦しいのでとりあえずイヤイヤ仕事はしていますけど、年末ジャンボで一等あたったらその翌日にはやめます。

じゃあ、宝クジを当てるのが夢かといえば、んー、ちがいますね。それが夢ならせめて宝クジを買ってるはずですが、ぜーんぜん買ってませんもん。。。

大金持ちの恋人ができて楽をさせてもらえたら嬉しいなとかも思うけど、本気でそういうひとに出会おうとしてるわけでもないし、やっぱこれも夢とはなんかちがう。。。

宝クジとか大金持ちの恋人とか、こういうのは願い事とは言えそうだけど、願い事はお祈りする対象(たいしょう)ではあっても、それに向けてひっしに生きよう!とはなかなかなれません。

もしかしたら、今の仕事ではなくやってみたい別の仕事がこの先みつかるかもしれません。そうなればそれに向けてそれなりに努力もするでしょうが、私はそれも夢とは呼ばないでしょう。
そういうのは私にとっては目標と呼ぶほうがしっくりきます。
そして、目標というのは考えが変われば、いつでもサラッと変えちゃったりもします、私は。想像以上にきつそうだとか、期待していたほど楽しくなさそうとか、そのくらいのことで別の目標にくらがえしてもいいと思っています。

私みたいな人間は、世のエラそうなオトナからは「ダメ人間」と言われるかもしれません(言われたらあっかんべーしますけど)。

ぼけた桜の花びら

夢っぽい夢、かな

しかし、私も色んなきっかけがあって夢を持つようになったな、と最近は思うようになりました。一生をかけて追い求めるだけの価値があると信じられて、そのためなら普段は無気力な私でも気力を出して頑張れたりすることです。

それはたとえば誰も差別されない平等な世界だったり、戦争もない世界だったりします。国家もなくなって、生まれつきでエライとされるような王様もいないし、天皇ももちろんいません。そんな世界をつくっていくのは、私には夢といえそうです。

「んな、無理ジャン!」と思われそうですけど、自分の生きているうちに完全に達成できなくても近づけられるだけ一生かけて近づこうとするだけのビッグプロジェクトだとも言えます。
これくらい壮大に夢を持ってしまうと私自身が何になる、どの職業につくか、ということにそこまで悩まされずにすんでいったというか、少なくとも選び方の基準も変わってきます。
いや、私の場合はそうやってはじめて選ぶための基準ができました。

どの職業につこうが目指す先は変わらないので、職業が目指したい方向に進むのをなるべく邪魔せず、できればなんらかの形でその手助けになればなおのことよし、こんな基準で考えられるようになってきました。

「私が何になりたいか」からいったん離れて考えさせてほしかった

しかし、私たちの生きる社会はそんなふうに夢をなかなか考えさせてくれないな、と思います。
この社会には色んな矛盾や不正議がまかりとおって、そこで生きづらさを抱え、しんどい思いをしているひとがいるのに、私が出会ってきたオトナたちの多くはそんな社会の在り方には目をつむったまま「お前は何になりたいんだ?」とだけ突きつけ、選ばせようとします。しかも人生のとても早い時期から。

高校は?大学は?学部は?偏差値はどのへん?資格は何をとる?就職は?

でも、そんなふうだと、あるとき何も選べなくなっちゃうというひとが必ずいると私は思います。こんな社会のままでは何になっても辛いと思っていた私自身がそうだったように。

どんな社会だったらもっと私が、今しんどそうなあのひとが、もっと生きやすくなるんだろうかと理想をぐるぐると思いえがきながら、それに向けて自分はどんなふうに生きていけるのかな、なんてことを考えられる時間がもっと用意されたらいいのに、そんなことをテレビの夢インタビューをみながら思ったのでした。

では、また会いましょう。

(この記事は2016年4月に書かれました)

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