ひとりひとり違う顔と名前をもった、目鼻のついた人々 (「ニコとラン」その2)

街を行くたくさんの人びとのぼやけた写真

顔や名前を持った誰か

お客が店を出て行くと、ぼくはいつも思っていたことを口にした。

「さいきんマスクをする人が増えて困るね。『アイ・スイッチ』という煙草が欲しいのか、コーヒーの『アイス・1』が欲しいのか、わからないときがある。僕らはお客が何を言ったか聞き取りにくいとき、口の動きや表情から読み取ろうとするわけだが、マスクをしているとそれがわからなくなる。」
「ニコはずいぶんお客さんの顔を見るんだね。いいことだ。」

ぼくの言葉にランは興味深げに答えた。ぼく・古履ニコと、友人の住市ランは、どこにでもあるようなコンビニエンスストアの、どこにでもいるような深夜のアルバイトだ。

犬の正面からの顔(モノクロ)

「顔というのは、その人間が誰かを示すいちばんわかりやすい特徴をもつ部分だ。他人の顔に出会うということは、自分の外の世界、つまり世の中のその具体的な姿と出会うことということだからね。」
ぼくは少し考えたが、ランのいうことがすんなりとは飲み込めなかった。

ランがいつものようにひどくむずかしい話をし始めた。ぼくは少し考えたが、ランのいうことがすんなりとは飲み込めなかった。戸惑いながらぼくは質問した。
「お客には具体的な目鼻がついていて、ひとりひとり違ってる。確かにぼくはそのことをよく知ってる。だがそれがどういうふうに世の中とつながるのかな。」
ランはいくらか間を置きながら、かみしめるように答えた。

「人間は生きるためにグループをつくる。家族や友人関係といった小さなものから、町や国といった大きなものまで、いろいろだ。ここまではいいかな。」
ぼくがうなずくと、ランは先を続けた。
「そうしたグループは規模が大きすぎたり、場所が遠くなりすぎたりすると、グループの名前だけが一人歩きをはじめる。たとえば『行政』『企業』『都市』や『国家』という名札をつけた怪物(リヴァイアサン)が実在するわけじゃない。そんな怪物はまぼろしだ。そこにはひとりひとり違う顔と名前をもった、目鼻のついた人々がいるだけなんだ。これはあたりまえのことのようだが、人間はときどきこのあたりまえのことを忘れてしまうことがある。そこに生きている相手の人々がどんな顔をしているのか、見るのを、考えるのを、わすれてしまうんだよ。」

ものごとのよしあしが決まるとき

そこまで聞いてもぼくはかんじんのところがまだわからなかった。
「そこまではなるほど、オーケーだ。だが大事なことをまだ聞いていない。その考えはどういうふうに役に立つのかな?
ランは『その質問をまっていた』とでもいうように大きくうなずいた。
「ものごとのよしあしの基準が変わってしまうのさ。たとえば、恋人を相手に抱きつくのと、通りすがりの赤の他人にそれをするのとでは、どう違うだろうね。」
簡単な話だ。ぼくは言った。
「そりゃあ違うね。恋人に抱きつくのは構わないが、赤の他人に抱きつくのは犯罪だ。セクハラだ。」
ランはうなずいた。
「では、その恋人同士が、実は、いっぽうがもういっぽうを虐げるDV(ドメスティック・バイオレンス)の状態にあったとしたら、どうだろう。抱きつかれるのさえ苦痛であるような場合だ。」
「たとえ恋人同士であっても、場合によっては抱きつくだけで暴力行為になることもあるだろうね。――ははあ、そうか。」
ぼくはようやくランの言おうとしていることがわかった。

「この区別をするとき、ぼくたちは相手が誰なのか、どういう関係にある人なのかを具体的に思いうかべているね。あれをしていい、これをしてはいけない、といった物事の判断は、すべて自分と、具体的な顔と名前を持った誰かとの関係の中でかたちづくられるんだ。そうだね?」
「そう。ものごとのよしあしはすべて、具体的な顔と名前をもった人間同士の間でとりかわされるのさ。『法律』も『約束』も『善悪』も『正義』も『真偽』も、すべてだ。」
ぼくがランの考えにどれほど驚いたか、どうして驚いたのかは、次の機会に書くとしよう。
(つづく)

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