障害はどこにあるのか

顔が見えない女性が花火を持っている

障害は個人のなかにあるのか?

 「この人の右手には障害がある」
 「あの人には知的な障害がある」

 このような表現が、よくなされます。
 (ちなみに、表現の問題で言えば、「障害」と「障がい」(「害」という漢字のひらがな表記)の問題もありますが、これについては、ここでは扱いません)

 私もついついこのような使い方をしてしまいます。そのほうが、他の人に通じやすいからです。けれども、こうした言い方は、よく考えてみればおかしいはずです。人間それじしんや、人間の部位に「障害がある」という言い方は、日常的には使われますが、次のような言い方でも通じるはずですよね。

 「この人の右手は動かしづらい」
 「あの人は考えることが苦手である」

 そして、「右手が動かしづらい」、「考えることが苦手である」ことが、その人たちが社会において生きていくうえで困難であるとき、そこで生じることが「障害」であるはずなのです。

 これは、いわゆる「身体障害」や「知的障害」だけに限った問題ではありません。精神的な病だと考えられる状況や、「発達障害」と呼ばれるような状況についても、基本的に同じことが言えます。たしかに、心の状態が不安定で、からだにどんよりした感覚があったり、ある物事にかんして集中して取り組めなかったりするような状況というのは、個人において現れます。しかし、そのようなことが個人の生きづらさとなって現れてくるのは、人と人との関係において、つまり、社会においてではないでしょうか。

カバーされたベッドの両脇にランプ

夜に寝るのは当たり前?

 たとえば、精神的な病の状態にあり、寝つけなくて苦しい状況は、個人において立ち現われるものなのでは? と思われるかもしれません。私は、基本的には、「寝たいときに寝て、寝つけないなら無理をしてまで寝ることはない」と思っています。昼間に起きて夜に寝るのが自然の摂理だと言われるかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。もし、「自然の摂理」というものがあるとすれば、それは自分自身の睡魔に従うことではないのでしょうか。また、インターネットで世界中が通信できる時代です。夜中に起きていようが、地球の裏側の人たちとスカイプを楽しめる時代です。逆に考えれば、居住する地域において多くの人が起きている昼間に仕事をしたほうが生産的なだけであって、昼間に起きておくべきという考えは、そうした社会の都合によるものであると言えると思います。そして、そうした「社会の都合」を、精神的な病の状態にある人たちが自分の考えとして受け入れてしまったとき、その人たちにさらなる苦しみを社会が与えてしまうとも言えるのです。

 このように考えたとき、個人において、または個人の部位のどこかに「障害がある」という言い方は、こうした人と人との関係や、個人は社会のなかに置かれているという事実を軽視してしまいます。本当に障害があるのは、個人ではなく、社会のほうであると考えられます。「右手に障害がある」と言われる人も、補装具をつけたり、右手の代わりになる介助の人がいれば、たとえ右手が動かしづらくても、それがその人にとって、社会で生きるうえでの「障害」になることは少なくなるのです。
 個人に「障害がある」という言い方は、一見当たり前なような言い方ですが、それを疑ってかかるところに、新たな発見があると私は思います。

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