深淵をのぞきこんで――シドニーの裏町で交錯した人生

バーのカウンター アルコールの瓶

よう、兄弟、もう一杯くれよ。
あいよ。もう一杯だけだぜ。
ああ、わかってる、もう一杯だけ。そしたら帰るよ。うちに。

 んな感じで、毎晩毎夜、どうやってうちに帰ったのかすら全く覚えてず、黄色く光る太陽のキラキラした光にまぶしく目覚める、そんな日が続いていた。もう今から30年近く前の話だ。オレはシドニーの繁華街に暮らしていた。夜な夜な、好きなバンドを追いかけ、書かなければいけないことを書き、言わなければいけないことを言い、ほとんど、それ以外の時間は酩酊(めいてい)していた。

 あのころのキングスクロスは尖ってた。エログロナンセンス。意味をなすことは何もなく、誰も彼もその日の一杯だけで生きていた。吹きだまりのような町を怖がる人は既に去り、反対に怖いもの知らずの連中が巣くっていた。

 毎日毎日、昼頃に起き出し、目覚めのコーヒーをざらつく胃に流し込む。うつろになりがちな目の前を家がなく路上で暮らすもの、あとで世界的に有名になる音楽家、ハリウッドでいくつも映画を撮る映像作家、世界的なベストセラーをものにする物書き、格好いい服を次から次に世に問うデザイナー、グラフィックデザイナー、何時間かおきに腕を縛り、血管を浮き上がらせ、注射針を刺し立てるジャンキーが通り過ぎていく。裏通りでは好きなヤクがいつだって手に入った。

 裏通りにはヤクの売人だけじゃなく、売春窟(ばいしゅんくつ)やいかにもいかがわしそうな飲み屋と並び、教会もあった。吹きすさんだ町の住民に希望を与えていた、ような気がする。

 少なくとも、いざとなれば、逃げ込めそうな場所が近所にあるってことは、いつ、落っこちるかわからないオレの命綱だった。きれいごとじゃ片付かない人間社会の底辺で、それは暗い闇夜を照らす灯台のように、淡い光を投げかけた。でもオレは腐ったって、アナキストだ。どんな神だって、信ずるわけがない。でも、神を信ずる人の中にもいい人はいるし、いざとなれば、神もへったくれもない。

 へったくれるほどのことはなかったから、キングスクロスにある英国国教会の教会には行ったことがない。だから、同じ頃この町に暮らし、この教会の牧師と仲良くなり、やがては改宗するまでになるモルデハイ・ヴァヌヌと実際に会ったことはない。でも、いろいろな人にすれ違う町だから、きっと、どこかですれ違ったかもしれない。

釈放されたヴァヌヌさん(中央)

モルデハイ・ヴァヌヌさん(中央)2005年

 ヴァヌヌが 2004年に釈放された時、牢獄(ろうごく)の外で彼を待ち受けていたひとりはヴァヌヌが捕まる前、滞在中のキングスクロスで出会った牧師だった。その牧師がホームレスや行き場のない人たちに出すコーヒーの屋台で、二人は出会い、哲学、実存主義を語り合い、意気投合し、ヴァヌヌがイスラエルの監獄につながれている間、二人はずっと文通を続けたのだった。教会をとおした社会正義の達成を目指す牧師のデイブとヴァヌヌはニーチェの「深淵(しんえん)をのぞき」自らの絶望をしっかり抱きしめよという実存のつらさ、反対に、深淵は神であり、そこへ飛び込み、あとは神に身を委ねろ(ゆだねろ)というキェルケゴールの楽観的な実存を語りあったという。

 (参考;2014年にオーストラリアのABC-TVで放送されたコンパスという番組。牧師、デイブを追う番組で10分半ごろからヴァヌヌとの出会い、付き合いについて語る。)

 イスラエルが5大国の核兵器管理体制の外で、極秘に核兵器の開発を行っているのではないかという疑惑はそれまでにもあった。ネゲヴ砂漠にあるディモナという施設がその中核だと見られていた。そこで働いていた技術者で証拠の写真だってあるというヴァヌヌの話はたいていの人にとっては与太話のひとつだった。ロンドンのサンデータイムズ紙の記者はそうは思わず、ヴァヌヌの差し出す証言、写真の裏付けをとろうとあちこちに連絡を取った。その記者の提言で、ヴァヌヌはキングスクロスをあとにし、ロンドンに出かける。イギリスのメディアにイスラエルの核開発の現状を内部告発した10月5日にはヴァヌヌはすでにモサドのエージェントの罠に陥り(おちいり)、イスラエルの法廷で反逆罪を言い渡され、18年の刑(そのうち11年は独房)に服した。

 ヴァヌヌと同じころ徘徊(はいかい)したキングスクロスに出かけることはほとんどない。それでも時々、裏道に迷い込むと、いろんな人の亡霊に混じり、片言の英語で、絶望の深淵を語り合う人の姿を見かけたような気になる。

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