平等ってなんだ?——本当はわかっている?

この画像には、左右2枚の絵があり、そのどちらにも、子どもが3人立っており、塀の外から野球観戦をしています。子どもは、どちらも左から背の高い順に並んでいます。そこに、3つの木箱があり、左の絵ではそれぞれに1つずつ踏み台として与えられています。右の絵では、背の高い子どもには木箱はなく、中ぐらいの子どもには1つ、いちばん背の低い子には2つ与えられています。左の絵では、いちばん背の低い子は野球観戦ができない状態ですが、右の絵では、全員が野球観戦できる状態です。そして、木箱が同じ数与えられるがいちばん背の低い子が野球観戦できない左の絵の下には「平等」、与えられる木箱の数は違うが全員が野球観戦できる右の絵の下には「正義」と書かれています。

 平等ということばは、あらゆる領域で用いられます。
 男女の平等、外国人との平等、健常者と障害者との平等、など。
 そして、一度は何がどうなれば、平等な状態なのかという問いを考えたことがある方が多いのではないかと思います。
 また、平等を目の敵にするようなことも言われたりします。必要悪、あるいは悪平等などと言われたりもします。たとえば、被差別部落の改良住宅や、生活保護の受給などにも、そのようなことが言われたりします。男女の平等を、混合名簿にするなら混合風呂や混合トイレにしろなどと揶揄(やゆ)されたりもします。平等な社会を、自由な社会と対比させたうえで、平等とは個人の自由を奪っていくものであるという理解のされ方もします。
 平等とは、「何かと別の何かとを等しくする、あるいは等しく扱う」ことです。実は、そのようなことは多くの人がわかっているのではないでしょうか。だとすれば、ここで問題になるのは、平等そのものの意味ではなく、何と何とを等しくする(扱う)か、つまり平等の基準を問うていることになるのではないでしょうか。

「平等とは何か」から「何の平等か」へ

 平等の基準を問うということと、平等とは何かを問うということは、違うことです。しかしながら、後者の問いを考えていけば、多くの場合、本当は前者の問いを問うているということになりがちです。どういう基準で平等を考えるのか、という問いこそ、重要になってくるのではないかと思います。
 たとえば、2人の人が、それぞれ100万円ずつ持っていたとします。所持金の金額という基準で見れば、たしかに平等であると言えます。しかし、生きていくために一方は月に10万円しか必要がないが、他方は月に100万円かかってしまうとすれば、どうでしょうか。100万円の所持金で、一方は10ヶ月生存できますが、他方は1ヶ月しか生存できません。このように、生存期間という基準で見れば、不平等なのです。
 このように、ある基準で見れば平等であったとしても、別の基準で見れば不平等であることが多々あります。平等とは何かについては、さきに述べたように、多くの人は問わずとも直感的にわかっているのではないでしょうか。基準によって平等か不平等かの判断が変わるなら、どういう基準で平等を考えるのか、すなわち「その平等とは何であるのか」を問うことこそが、平等の問題の中心にあると言えそうです。

「平等は正義を意味しない」

この画像には、左右2枚の絵があり、そのどちらにも、子どもが3人立っており、塀の外から野球観戦をしています。子どもは、どちらも左から背の高い順に並んでいます。そこに、3つの木箱があり、左の絵ではそれぞれに1つずつ踏み台として与えられています。右の絵では、背の高い子どもには木箱はなく、中ぐらいの子どもには1つ、いちばん背の低い子には2つ与えられています。左の絵では、いちばん背の低い子は野球観戦ができない状態ですが、右の絵では、全員が野球観戦できる状態です。そして、木箱が同じ数与えられるがいちばん背の低い子が野球観戦できない左の絵の下には「平等」、与えられる木箱の数は違うが全員が野球観戦できる右の絵の下には「正義」と書かれています。

 この画像では、木箱が同じ数与えられるがいちばん背の低い子が野球観戦できない左の絵の下には「平等」、与えられる木箱の数は違うが全員が野球観戦できる右の絵の下には「正義」と書かれています。
 また、別の見方をすれば「機会の平等」と「結果の平等」という区別であると言えるかもしれません。どういうことばで表されているかはともかく、ここで言いたいのは、平等を考えるとき、問題となるのは、その平等が何によって測られているのか、つまり、平等の基準こそが問題になってくるということなのです。

多様性を肯定する基準へ

 それでは、平等の基準にはどういうものが適当なのでしょうか。これについては、いろいろな研究者がいろいろな基準を考えていますが、私は、人間の生存や生き方、その人たちのあり方の多様性が肯定されるような基準がよいのではないかと思っています。大ざっぱな判断基準ではありますが、そのような大前提で、個々の例について考えていくよりないのではと思うのです。
 たとえば、上記の画像の例で言えば、与えられる木箱の数ではなく、子どもたちが野球観戦ができるような目線の高さこそが問題であると言えます。子どもたちが、背の高さの違いという「あり方の多様性」を持つのは当然のことです。人間のあり方の違いから生じる多様性によって不利益がない状態にすることこそが、平等の意義であると、私は考えます。
 いろいろな人たちがいてこそ、社会が成り立つのです。このことを踏まえるならば、人間が生きること、その存在の多様性を肯定するような基準こそが、平等というものを考えるうえで必要である、そのように私は考えます。

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